ふくおか探検『香椎』数奇な運命の明石邸

 国鉄鹿児島本線の踏切を渡ってすぐの香椎宮勅使道大鳥居の左側に、洋館建ての邸宅がある。明石正和さん(78)=社会福祉法人桃源コロニー創立準備会委員=は、いまその裏側にある古びた木造の家に住む。

 『父が建てた家なんですが、父もわずかしか住まなかったのです』と明石さんはいう。 戦前の昭和5年、当時の香椎地区の人がびっくりするような洋館の豪邸が、ここに建てられた。鉄筋3階建て。人々は『明石邸』と呼んでうらやましがった。戦前の香椎名所の一つだ。

 明石家といえば黒田の殿様にかかえられて福岡入りした黒田藩の重心。維新後軍人一族で日露戦争のとき諜報活動で有名な明石元二郎大佐(のち大将、台湾総督、1884〜1919年)も出ている。

 正和さんの父は明石東次郎で、明石家の本家。陸軍士官学校から砲工学校に学び、第1次世界大戦直前の大正2年、ロシヤから火薬供給の要請で陸軍火薬研究所所長(陸軍大佐)を退き、兵庫県網干の日本セルロイド工業に入って火薬製造の技術指導をした。

 大正7年には中国の安東に渡り撫順炭鉱などにハッパの火薬を供給する満州鉱山薬株式会社の技術顧問(取締役)に。さらに張作霖軍に頼まれて、奉天(現瀋陽)の兵工廠でも火薬製造を指導した。

 そのころ、父東次カが7万円で建てたのが、この洋館。1800坪の敷地に地下室つき2階建て129坪。京都の島津邸を参考にして設計された。現代にも堂々と通用する住宅だ。

 ところが、この建物、数奇な運命をたどる。父東次カは昭和17年、帰国して一時住んだが、戦後は米軍に接収され、占領軍幹部の宿舎となる。接収解除後は経済的問題から第三者の手に。いまはさらに、その第三者から譲り受けた人が住んでいる。

 『軍人一族のたどった道は厳しかった』(詩人・杉山参緑さん)と、香椎の戦前・戦後を見つめてきた人はいう。

 『父がおらず、母が明石一族の年寄りをあずかって住んで来たのでいまも”明石将軍の家”と思っている人が多い。ともあれ私はいま、軽費老人マンションなどを松崎に建てる計画を進めている』 明石家の当主正和さんは、社会福祉事業でひと踏んばりしようと奔走中だ。

 昭和53年1月7日 西日本新聞 ふくおか探検香椎より転載